序 目覚めし此処は知識の泉
まず、知覚したのは、匂い。
温かくて、懐かしくて、辛くて、寂しい、匂い。
あまりにも嗅ぎ慣れた、体臭になるまで染みついた匂い。
まぶたを通して視神経が光を捉える。
目を刺す様な鋭い光ではなく、十分な光量をもった優しい光。
徐々に触覚も戻ってくる。
痛み。
体のあちこちが痛みを訴えるが、完全な覚醒を促すほどのモノではない。
まどろむ思考では何故痛みがあるのかを思い出すことも出来ない。
次に後頭部の感触。
おそらくは枕。
粗末なものではなくて、羽毛がふんだんに使われているのであろう高級品。
良い枕だ、こんなのウチにあったか・・・・・?
無い。
ならば何処かに泊まったのか?
無い、むしろ休みの予定なんて入れていない。
昨日の事から思い出す。
うさんくさい魔法使いのおっさんに頼まれた魔術書を仕入れた。
受け渡しの時間まで間があったので、書棚の整理と掃除をする。
その後は?
いや、その途中だ。たしか・・・・・・。
「・・・・・・・・・っ!」
一気に覚醒。慌てて身をおこす。
「がっっ!?」
同時に激痛。ベッドにただいま。
ぎっ、とベッドが鳴る。結構な勢いで倒れたのだが、ほとんどの衝撃を吸収したらしい。
やはりコレも高級品。
非常事態の焦りと激痛によって乱れた頭はアホな思考しか涌いて来ない。
「もう少し静かにしていた方がいいわ。急に動くと傷口が開く」
あまり抑揚の無い、冷静な声が耳に滑り込んでくる。敵意や警戒は感じられない。
目を閉じ、落ち着いて、呼吸を整える。
改めて自分の状態から確認。
体のあちこちから痛み。しかし危険を訴えるような痛みではない。
切り傷、擦り傷、打撲。特に酷いのは打撲。だが、どれも手当されている。
幸い骨折箇所は無い。おそらくは酷い内出血。
仰向けに寝かされている。拘束はされていない。
拘束されていない?
まぶたをあげる。
目に入ったのは天井とシャンデリア。最初に感じた通り、明るいが優しい暖色光。
天井はかなり高い。
軽く首を起こす。
本棚。どこまでも続いているかの様な錯覚を起こすほどの、長く、大きな本棚。
どうやらその隅の一角らしい。右側に壁を確認。
「図書館?」
図書館にベッドがあるかは疑問だが、雰囲気、匂い、光の調節具合。どれをとっても図書館としか思えない。
「そう、ここは図書館。紅魔館の地下に位置する知識の泉」
先ほどと同じ声。今度は眠気と倦怠感も感じられる、綺麗なアルト。
声の方向に見当をつけて首を巡らす。
ウッドデスクと深い椅子。その椅子に腰掛けた人影。
女・・・・・・というには若すぎる。少女。手元の本に目線をおとしているが、先ほどまで此方を向いていた気配。
紫色のロングヘアー。眠たげな、やはり紫色の瞳。
色白というには白すぎる肌。しかし不健康さは感じない。
大きめの薄紫の帽子には三日月を模した飾り。
同色のゆったりとしたローブ。開いた合わせ目からは、白と紫の縦ストライプのワンピ−ス。
縁無しの眼鏡。光に照らされた横顔は、息を呑むほどの可愛さ。
そこまで観察した所で、不意に少女は此方を向いた。
ねむたそうな瞳と目が合う。少しの間。口を開いた少女の口から、言葉が零れる。
「で、あんた誰?」
とりあえず、危険は無さそうだ。
「文車宗司(ふぐるま・そうし)」
名乗ろうとした俺を制して「まぁ、紅茶でも飲みなさい」とベッドの脇に置かれた簡易テーブルに、自らも椅子を寄せて紅茶を淹れ始めた少女に対し、上半身を起こした俺はそう名乗った。
主導権を握られるのは気分が宜しくないし、名前に反応すればそれなりの対応が出来ると踏んだためだ。
「そう」
少女は動揺するでもなく、淡々と紅茶を注ぐと俺の前にティーカップを置く。
紅茶から立ちこめるシナモンの香り。
名前に対する反応無し、淹れた紅茶はシナモンティー。シナモンには沈静効果が有る。
傷の手当て、焦らせないための制止、落ち着かせる為の紅茶。「あんた誰?」の質問も害意は無いという証明。どうやら気遣いを無下にしてしまった様だ。気まずさに後頭部をやや荒く掻く。
「気にする事は無いわ。見知らぬ場所にいたら誰だって警戒するでしょう?」
紅茶をひと啜りすると、少女はそう言った。再び本に目を落とす。
「聡いですね」
「貴方もね」
口にした言葉は少ないが、それだけでかなり聡明な人間だと判断する。
怪我人に対する理解、行動から相手の思考を読む鋭さ。具合を見ての安全の判断。
なんら問題は無い。敵対する者なら問答無用で拘束するだろう。
警戒も解いて良さそうだ。
「失礼しました、あらためて」
すい、と手を挙げてこちらを制す少女。
「紅茶、冷めると良くないわ」
重ねての失態に苦笑しつつ、カップを口に運ぶ。
旨い。水分と熱が、体に染みる。めまいがする。軽く脱水症状にあったようだ。
俺の様子を横目でちらりと伺うと、再び本に目を落として、
「私はパチュリー・ノーレッジ」
ぱらり、とページをめくる。
「この図書館の司書をしているわ。生粋の魔法使いよ」
魔法使い・・・・・・?
まて、まてまて。焦るな混乱するな動揺するな、整理しろ。
最初からだ、
うさんくさい魔法使いのおっさんに頼まれた魔術書を仕入れた。
受け渡しの時間まで間があったので、書棚の整理と掃除をする。
数人の背広服が入って来た。
いきなりの詠唱。
とっさに防御陣展開。
店が吹っ飛ぶ。
意識が途絶える。
痛みによる強制的な覚醒。
痛み、痛み、痛み。
殴られている。リンチだ。
唐突に攻撃が止む。
浮遊感。
誰かに抱えあげられたようだ。
「すまない、儂のせいだ。君は望まないかもしれないが、別の次元に君を飛ばす。幻想郷がいいだろう、簡単には見つかるまい・・・・・・」
「え・・・・・・幻想郷・・・・・・?」
呟く。おそらく魔法使いのおっさんの仕業だろうが、どうやら別の次元、というより別
の世界に飛ばされたようだ。あいつらから俺を逃がすために。マジで魔法使いだったのか、
あのおっさん。少なくとも魔術師じゃ無かったってことだ。
ふと気がつくと、パチュリーと名乗った少女がこちらを見ていた。
「そうよ、ここは幻想郷」
一息。
「貴方、やっぱり外の世界から来たみたいね」
少し長くなるけど。と彼女は前置きを入れてから、幻想郷について語り出した。
人間、魔法使い、妖怪、神、悪魔、幽霊、精霊等。さまざまな種族が存在しており、それぞれがコミュニティを形成し、生活している。人間の数は少なくないが、凶暴な妖怪により捕食されたりする。人間にも力のあるものがおり、そういった害のある妖怪を狩ることを生業としている者もいるらしい。最近は安定しているため、そういった妖怪も少なく安全で、ハンターも休業状態らしい。だが、しばしば何かしらの異変がおこり、幻想郷の住民たち(妖怪含め)を悩ませているらしい。つい先日など大規模な地震があったとか。大抵は博麗という神社の巫女が異変を解決してしまうらしいが。
外の世界からよく物が飛ばされてくるらしく、ワケも解らず使っているものもあるらしい、同時に人間も迷い込んで来るとか。「らしい」の連発は勘弁してくれ。
「貴方の場合はそうではなさそうだけれど」
「そうなります、ね。続きを」
何らかの異常により迷い込んできた人間は、そのままわけも解らず妖怪に喰い殺されるか、人間の郷に住み着くか、博麗神社の巫女により元の世界に返して貰うからしい。例外もあるようだが。因みに俺は道ばたで死にかけていた所を拾われたとか。そのまま妖怪に喰われなかったのは幸運としか言いようがない。
「貴方も帰りたいのなら博霊神社に居る巫女の霊夢に頼むと良いわ。もっとも、金銭を要求されるでしょうけど」
「随分と・・・・・・変わった巫女さんですね」
言葉を選ぶ、本当ならば「何ですかその金銭欲丸出しの巫女は」という所だが。知り合いっぽいので自重。
「但し」
空気が、変わる。一気に二度ほど気温が下がったかのような感覚。
目の前の少女から発せられているのは、まごう事なき殺気。
ねむたげな目はそのままに、冷たく鋭利な輝きを瞳に宿す。
「貴方が幻想郷に害をもたらしに来たのなら、私は貴方をここで潰す」
脅しではない、実際、俺を殺せるだろう。満足に動けないこの状況では、瞬時に消し炭にされる事間違いなし。冷や汗が流れる。俺は努めて平静を装って、言う。
「僕は逃げて来ただけです。そんなつもりはありませんよ」
少女は目を細めると、威圧をやめた。
「そう」
本に目を落とす。まるで、自分の役目はこれで終わりとばかりに。
「なら良いわ、好きになさい」
・・・・・・。
かつがれた?いや、多分おれが幻想郷に対して何かをする気がないのを解っていながらも、あえて威嚇したのだろう。「私は貴方に対して気を許したワケじゃないのよ」と。
聡い少女だ。俺がここまで読む事を計算に入れての事だろう。人付き合いは苦手そうだが。
さて、どうするか・・・・・・。恐らくこれから博麗神社に行って、金を払って戻ったとしても、帰る所は既にない。バラバラだ。ったく、問答無用で人の店つぶしやがって。帰る場所が有ったとしても、奴ら、まず間違いなく魔術師協会の人間だろうがね。あいつらに捕まるだろう。それこそ問答無用だ。帰るという選択肢は削除。
そうすると幻想郷に止まって、ここで生活するのがベストか。もとより知り合いもほとんど居ないようなものだ、何の問題もない。おっさんにここまで飛ばされ、ぼろぼろになっていたところを、このパチュリー・ノーレッジという魔法使いの少女に命を助けられた。
ならば、答えは一つだ。
「ノーレッジさん」
「何?」
本からは目を上げない。
「命の借りは命で返しなさい、というのが家訓でして」
「それで?」
「此処においてもらえませんか? もちろん只で、とは言いません、外の世界では本屋を経営していました。何かのお役には立てると思います」
いっておくけれど、家訓は本当だ。それが悪であれ、善であれ、命を救って貰ったなら全身全霊をもって借りを返しなさいと。お袋に言われている。そして図書館という場所。自分の能力が最大に発揮できる場所はここしか無いだろう。
少女はため息をつくと、ぱたん、と本を閉じる。
「そう言うと思ったわ」
「はい?」
さすがに此処まで読めるとは考えづらい。唐突だし、何より先ほどの威嚇を無視したような発言だからだ。俺も断られるのを前提で、いくつか説得材料を集めていたのだが。
「似ているのよ、雰囲気が。いや、全然似てないけれど、似ているのよ」
「はぁ」
誰に? と聞きたかったが止めておいた。寂しげな目が、のどまで出かかった質問を押しとどめた。
「なんにせよ、私の一存では決めかねるわ、お伺いを立てないと」
「誰にです?」
「ここ、紅魔館の主よ」